慶応4年(1868年)、近藤勇は千葉の流山で捕縛(ほばく)され、板橋で処刑されました。
「何が正しいのかわからない時代」に正義を貫き散っていった近藤勇。敬意を払いたく、お墓を訪れました。
この記事は、近藤勇の「最後の21日間の足跡」を紹介します。
都営三田線「板橋本町駅」からJR埼京線「板橋駅」まで1時間で歩き、板橋宿本陣から、近藤勇のお墓までご紹介します。
この記事のとおり歩けば、近藤勇が最後に見た景色を見ることができます。2時間程度で歩けるコースなのでお散歩(デートにも?)に最適です。
なぜ近藤勇は「板橋」で最期を迎えたのか?
新選組局長として、京都でその名を轟かせた近藤勇。彼がなぜ江戸の入り口である「板橋」で最期を迎えることになったのでしょうか。
ココがポイントその背景には、時代の大きなうねりがありました。
慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は新政府軍に大敗します。近藤勇たち新選組も江戸へ敗走を余儀なくされました。
徳川家の存続を信じ、彼は「甲陽鎮撫隊」として再起を図ります。しかし、甲州勝沼の戦いでも敗れ、仲間は散り散りになりました。
それでも彼は諦めませんでした。千葉県の流山で、再度の決起を目指し仲間を集めていたのです。しかし、そこを新政府軍に包囲されてしまいます。
彼は「大久保大和」という偽名を使い、仲間を逃がすために自ら出頭しました。この時点では、彼が近藤勇であると気づく者はいなかったと言われています。
捕縛された彼は、新政府軍の本陣が置かれた「板橋宿」へと送られました。江戸市中ではなく、江戸の境界である宿場へ送られたのです。
当初、新政府軍の中でも彼の処遇については意見が割れていました。特に薩摩藩は、彼の武士としての器量を評価し、助命を考えていたとも言われます。



しかし、運命は彼に味方しませんでした。
板橋宿で、彼の正体は暴かれてしまいます。そして、「ある事件」の責任を追及する声が、新政府軍内部で日増しに高まっていったのです。
この記事では、彼が流山から送られ、最期の21日間を過ごした板橋の地を、私の足跡と共にたどっていきます。
聖地巡礼の前に知っておきたい「当時の板橋宿」
私たちがこれから巡る「板橋宿」は、当時とても重要な場所でした。
板橋宿は、江戸日本橋から出発して最初の中山道の宿場町です。「江戸四宿」の一つであり、江戸の玄関口として大変栄えていました。
多くの旅人や大名行列が行き交う、活気あふれる場所だったのです。



しかし、板橋宿にはもう一つの顔がありました。
宿場の北側、私たちがこれから向かうお墓や処刑場の近くには「平尾の刑場」がありました。板橋宿は、江戸市中から隔絶された「境界」の地でもあったのです。
罪人が江戸市中に送られる前に留め置かれたり、あるいは処刑されたりする場所。
近藤勇が板橋宿へ送られたのは、彼が「宿場に留め置くべき重要人物」と見なされたからにほかなりません。
彼が幽閉された豊田家は、その宿場の名主でした。当時の喧騒と、すぐそばにある「死」の気配。その中で彼が何を思ったのか。
そんな当時の風景を想像しながら歩くと、より深く彼の心情に近づける気がします。
近藤勇の最期を巡る「2時間モデルコース」概要
この記事でご紹介する聖地巡礼コースの全体像を、まずお伝えします。
都営三田線「板橋本町駅」からスタートし、JR埼京線「板橋駅」でゴールする、約2時間のウォーキングコースです。
実際に歩く距離は約3キロメートルほど。歴史散歩として、ちょうど良い距離だと私は感じました。
| 順番 | スポット名 | 概要(ここで何があったか) |
| 1 | 板橋宿本陣跡 | 近藤勇が送られ、正体が判明した場所。 |
|---|---|---|
| 2 | 豊田家屋敷跡 | 約20日間、幽閉されていた場所。 |
| 3 | 馬頭観音(石山家跡) | 処刑前夜を過ごし、処刑された場所。 |
| 4 | 近藤勇の墓所 | 永倉新八が建てた供養塔(お墓)。 |
各スポット間の移動は、長くても15分程度です。
既存記事では、このルートを写真付きで細かく案内しています。この記事の通りに進めば、迷うことなくすべての聖地を巡ることができます。
板橋本陣跡スタート!近藤勇のお墓までの行き方・アクセスガイド
1868年4月3日:板橋宿本陣へ移送(正体を見破られた地)
「板橋宿本陣」は、都営三田線「板橋本町駅」または「板橋区役所駅」が最寄りです。
本記事は板橋本町から向かいます。


都営三田線「板橋本町駅」A1出口からスタート。
地下鉄ですが、エレベーター、エスカレーターあります。


セブンイレブンを直進します。人通りは少ないので歩きやすいです。


セブンイレブンから100メートルほど進むと、ENEOS(エネオス)が見えてきます。


エネオスからさらに100メートルほど進むと「新板橋」が見えてきます。
橋を左折します。


「新板橋」を左折し、50メートルほど進むと「板橋」が見えてきます。
右折します。




「板橋」は板橋の名前の由来になった橋です。
地味にすごいですよね。


「板橋」を直進すると、「仲宿商店街」が見えてきます。


「仲宿商店街」を進むと、左手にスーパーマーケット「ライフ」が見えてきます。


「板橋宿本陣跡」は、スーパーマーケット「ライフ」の側にあります。




板橋宿本陣は明治時代に火事で焼け、現在は碑と案内板が商店街の一角に立っています。
板橋宿本陣では「大久保大和」を名乗って出頭した近藤勇。
しかし、元新選組隊士の加納鷲雄(かのう わしお)と清原清(きよはら きよし)に正体を見破られた地です。
この二人と面会しなければ、運命が変わっていたかもしれません。
〒173-0005 東京都板橋区仲宿47
1868年4月4日:板橋の豊田家に幽閉される
板橋宿本陣で「近藤勇」と見破られた翌日4月4日、「平尾宿名主家」である豊田家に幽閉されます。
「板橋宿本陣跡」から300メートルほど直進すると豊田家につきます。


左手に板五米店が見えます。


板五米店は、板橋区仲宿に位置する歴史あるお米屋さん。築100年以上の古民家をリノベーションしたカフェを運営してます。


大正時代に建てられ、板橋区の有形文化財にも指定されています。


大きな羽釜でお米を炊いているので、おむすびがめっちゃ美味しいです。


板五米店では、おにぎりやカフェなど、食事が楽しめます。
1,000円あれば休憩できます。


板五米店をまっすぐ進むと、ファミリーマートが見えます。通り過ぎます。


ファミリーマートから50メートルほど先に「ひろば前歯科医院」が見えてきます。左折します。




「ひろば前歯科医院」を左折、50メートルほど先、左手に屋敷跡があります。


板橋平尾宿の名主である豊田家の屋敷跡。写真は明治9年(1876年)に撮影されたものです。処刑されるまでの約20日間、近藤勇が監禁されていました。
今はマンションが建ってますが、石碑が建てられており、新選組ゆかりの地として観光スポットになっています。
〒173-0004 東京都板橋区板橋3丁目15
1868年4月24日:石山亀吉邸に移される
処刑前日(1868年4月24日)、近藤勇は豊田家から石山亀吉邸(石山家)に移されます。


豊田家屋敷跡をUターン「ひろば前歯科医院」に戻ります。
左折します。


左折すると観明寺(かんみょうじ)が見えます。
観明寺は板橋区板橋3丁目に位置する歴史ある真言宗豊山派の寺院。
室町時代初期に創建されたと伝えられています。


境内には、1661年の寛文元年(かんぶんがんねん)に建立された庚申塔(こうしんとう)があり、板橋区指定有形文化財に指定されています。


観明寺を直進すると、ガストが見えます。首都高の横断歩道を渡り、エネオスを左折すると平尾交番が見えてきます。




交番を右に入り、直進します。


交番横を真っ直ぐ100メートルほど進むと「埼京線」の踏切があります。


踏切を100メートルほど進むと、左手にセブンイレブンが見えてみます。


セブンイレブンから20メートルほど進むと、三井のリパークがあるので、手前を右折します。


右折するとすぐに自動販売機があります。その裏に建てられてるのが馬頭観音(ばとうかんのん)。近藤勇は、このあたりで処刑されました。
馬頭観音が建てられている理由は、亡くなった馬の供養のために建てられたものです。江戸時代、病気や怪我をした馬たちが処分される場所があり、そこに馬頭観音が祀られていました。


石山家もこのあたりにありました。
処刑前日(4月24日)、馬頭観音の裏手にある石山家へ移された近藤勇。ここで一晩を過ごしました。


お風呂に入り、ひげを剃り、絵草紙(えぞうし)を読んで静かに過ごしたと言われています。
〒114-0023 東京都北区滝野川6丁目85 あたり
1868年4月25日:板橋「馬頭観音」あたりで処刑される


1868年4月25日、午後5時40分頃、近藤勇は馬頭観音付近で斬首されました。
斬首された理由は、彼が新政府軍にとって重大な罪人と見なされたためです。
特に、土佐藩が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を新選組の仕業と信じており、近藤勇の処刑を強く望んだことが大きな要因です。
通常、武士は名誉を重んじて切腹を許されることが多かったのですが、近藤勇の場合は斬首という最も重く屈辱的な処刑方法が選ばれました。これは、新政府軍内での処遇の話し合いの結果、土佐藩の意見が強く反映されたためです
先に紹介したセブンイレブン周辺は見物人で溢れていたそうです。
現在、この辺りは民家・マンションが立ち並び賑わっています。当時の景色は、道を一本入った大きなマンションの脇にある馬頭観音の祠だけです。
〒114-0023 東京都北区滝野川6丁目62
近藤勇の墓所(永倉新八)
斬首後、近藤勇の遺体は埋葬されました
馬頭観音から近藤勇の墓へ向かいます。


馬頭観音を50メートルほど直進。右折するとお墓があります。


現在の板橋駅東口前にこのお墓(供養塔)は建てられています。新選組2番隊隊長の永倉新八により作られました。


函館で戦死した副長の土方歳三をはじめ、百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。
〒114-0023 東京都北区滝野川7丁目8-10


近藤勇の墓の前には「JR埼京線 板橋駅」があります。近くて便利ですよね。


お疲れ様でした。
近藤勇を供養するために、ぜひ歩いてみてください。
1~2時間程度で歩ける程よい距離なので、健康にもオススメです。
処刑後の近藤勇:消えた首と胴体、板橋に「墓」が建てられた真実
板橋で晒された近藤勇の首は、塩漬けにされて京都三条河原で晒されました。しかし、その後首は消えてしまいました。誰かが寺に埋葬したとされています。
胴体は、板橋の刑場に埋められた史実はありますが、その後の行方が不明のままです。4月28日の夜に、宮川勇五郎(みやがわ ゆうごろう)らが掘り起こし、近藤家の寺である龍源寺に改葬したと言われています。
しかし、石山家では見張りが厳重だったため、掘り起こすことはできなかったとも言われており、胴体の行方も不明のままです。
いづれにしても、近藤勇は自分の正義を貫き通し散っていきました。彼がいなければ池田屋事件もなく、明治維新も遅れたかもしれません。実際、新選組の影響は、単に歴史的な出来事にとどまらず、現代の日本文化や社会にも大きな影響を与えています。
なぜ武士の名誉「切腹」は許されなかったのか?
近藤勇の最期を語る上で、避けて通れないのが「なぜ斬首だったのか」という点です。
彼は武士として、新選組局長として、最後まで幕府への忠義を貫きました。通常であれば、武士としての名誉を保つ「切腹」が許されてもおかしくありません。
しかし、彼に下されたのは「斬首」。これは武士としてではなく、罪人としての処刑方法でした。
最大の理由は、新政府軍(特に土佐藩)が彼を「坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺」の実行犯だと固く信じていたからです。
近江屋事件の際、現場には新選組が使っていた刀の鞘が落ちていた、という証言もありました。これが土佐藩の怒りを買う決定的な要因となったのです。



実際には、この暗殺事件は京都見廻組の犯行であったことが後に判明します
板橋宿で近藤勇の正体が暴かれると、土佐藩は「龍馬の仇」として、彼の処刑を強硬に主張しました。
薩摩藩などからは助命論も出ましたが、新政府軍内での土佐藩の発言力は非常に強く、その要求が通ってしまいます。
彼らは近藤勇に武士としての名誉ある死を与えるつもりは、まったくありませんでした。
彼は罪人として首を打たれ、その首は塩漬けにされて京都へ送られました。そして三条河原で晒し首にされたのです。
幕末の京都を震撼させた新選組局長の最期としては、あまりにも無念なものだったと私は思います。
私たちが訪れる馬頭観音は、まさにその無念の地です。その歴史を知った上で手を合わせると、感じるものがまったく違ってくるはずです。
聖地巡礼をより深く味わうための準備とマナー
最後に、この聖地巡礼をより良い時間にするため、私からいくつかアドバイスです。
服装は「歩きやすい靴」で
約3キロ、2時間のコースです。大半は平坦な道ですが、商店街や路地裏も歩きます。革靴やヒールではなく、スニーカーなど履なれた靴を選んでください。
飲み物と地図(この記事)の準備
コースの途中にはコンビニや自動販売機も多くあります。しかし、豊田家屋敷跡の周辺などは住宅街です。夏場は特に、飲み物を一本持っておくと安心です。また、この記事をスマホですぐに見られるようにしておくと、道に迷わずスムーズです。
静かに歴史に思いを馳せる
私たちが訪れるのは、観光地であると同時に、人の「死」にまつわる場所であり、お墓です。 特に豊田家屋敷跡(現在はマンション)や馬頭観音、そして近藤勇の墓所では、大声で騒ぐことは控えましょう。
近藤勇や、彼と共に散った隊士たち、そして彼を弔い続けた永倉新八。そんな人々の思いを感じながら、静かに手を合わせるのが、この聖地巡礼にふさわしい作法だと私は考えます。




