慶応4年(1868年)、近藤勇は千葉の流山で捕縛(ほばく)され、板橋で処刑されました。
「何が正しいのかわからない時代」に正義を貫き散っていった近藤勇。敬意を払いたく、お墓を訪れました。
この記事は、近藤勇の「最後の21日間の足跡」を紹介します。
都営三田線「板橋本町駅」からJR埼京線「板橋駅」まで1時間で歩き、板橋宿本陣から、近藤勇のお墓までご紹介します。
この記事のとおり歩けば、近藤勇が最後に見た景色を見ることができます。2時間程度で歩けるコースなのでお散歩(デートにも?)に最適です。
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【近藤勇が見た最後の風景】幽閉から処刑まで時系列で紹介
「池田屋事件」後、近藤勇は新選組の局長として広く知られるようになりました。
しかし、開国や倒幕、明治維新の流れは止められず、彼らの時代は長く続きませんでした。
慶応4年(1868年)4月3日、鳥羽伏見の戦いで敗れた近藤勇は新政府軍に捕まります。
大久保大和という偽名のまま流山で拘束され「板橋宿本陣」へ移送されました。
1868年4月3日:板橋宿本陣へ移送(正体を見破られた地)
「板橋宿本陣」は、都営三田線「板橋本町駅」または「板橋区役所駅」が最寄りです。
本記事は板橋本町から向かいます。

都営三田線「板橋本町駅」A1出口からスタート。
地下鉄ですが、エレベーター、エスカレーターあります。

セブンイレブンを直進します。人通りは少ないので歩きやすいです。

セブンイレブンから100メートルほど進むと、ENEOS(エネオス)が見えてきます。

エネオスからさらに100メートルほど進むと「新板橋」が見えてきます。
橋を左折します。

「新板橋」を左折し、50メートルほど進むと「板橋」が見えてきます。
右折します。


「板橋」は板橋の名前の由来になった橋です。
地味にすごいですよね。

「板橋」を直進すると、「仲宿商店街」が見えてきます。

「仲宿商店街」を進むと、左手にスーパーマーケット「ライフ」が見えてきます。

「板橋宿本陣跡」は、スーパーマーケット「ライフ」の側にあります。


板橋宿本陣は明治時代に火事で焼け、現在は碑と案内板が商店街の一角に立っています。
板橋宿本陣では「大久保大和」を名乗って出頭した近藤勇。
しかし、元新選組隊士の加納鷲雄(かのう わしお)と清原清(きよはら きよし)に正体を見破られた地です。
この二人と面会しなければ、運命が変わっていたかもしれません。
〒173-0005 東京都板橋区仲宿47
1868年4月4日:板橋の豊田家に幽閉される
板橋宿本陣で「近藤勇」と見破られた翌日4月4日、「平尾宿名主家」である豊田家に幽閉されます。
「板橋宿本陣跡」から300メートルほど直進すると豊田家につきます。

左手に板五米店が見えます。

板五米店は、板橋区仲宿に位置する歴史あるお米屋さん。築100年以上の古民家をリノベーションしたカフェを運営してます。

大正時代に建てられ、板橋区の有形文化財にも指定されています。

大きな羽釜でお米を炊いているので、おむすびがめっちゃ美味しいです。

板五米店では、おにぎりやカフェなど、食事が楽しめます。
1,000円あれば休憩できます。

板五米店をまっすぐ進むと、ファミリーマートが見えます。通り過ぎます。

ファミリーマートから50メートルほど先に「ひろば前歯科医院」が見えてきます。左折します。


「ひろば前歯科医院」を左折、50メートルほど先、左手に屋敷跡があります。

板橋平尾宿の名主である豊田家の屋敷跡。写真は明治9年(1876年)に撮影されたものです。処刑されるまでの約20日間、近藤勇が監禁されていました。
今はマンションが建ってますが、石碑が建てられており、新選組ゆかりの地として観光スポットになっています。
〒173-0004 東京都板橋区板橋3丁目15
1868年4月24日:石山亀吉邸に移される
処刑前日(1868年4月24日)、近藤勇は豊田家から石山亀吉邸(石山家)に移されます。

豊田家屋敷跡をUターン「ひろば前歯科医院」に戻ります。
左折します。

左折すると観明寺(かんみょうじ)が見えます。
観明寺は板橋区板橋3丁目に位置する歴史ある真言宗豊山派の寺院。
室町時代初期に創建されたと伝えられています。

境内には、1661年の寛文元年(かんぶんがんねん)に建立された庚申塔(こうしんとう)があり、板橋区指定有形文化財に指定されています。

観明寺を直進すると、ガストが見えます。首都高の横断歩道を渡り、エネオスを左折すると平尾交番が見えてきます。


交番を右に入り、直進します。

交番横を真っ直ぐ100メートルほど進むと「埼京線」の踏切があります。

踏切を100メートルほど進むと、左手にセブンイレブンが見えてみます。

セブンイレブンから20メートルほど進むと、三井のリパークがあるので、手前を右折します。

右折するとすぐに自動販売機があります。その裏に建てられてるのが馬頭観音(ばとうかんのん)。近藤勇は、このあたりで処刑されました。
馬頭観音が建てられている理由は、亡くなった馬の供養のために建てられたものです。江戸時代、病気や怪我をした馬たちが処分される場所があり、そこに馬頭観音が祀られていました。

石山家もこのあたりにありました。
処刑前日(4月24日)、馬頭観音の裏手にある石山家へ移された近藤勇。ここで一晩を過ごしました。

お風呂に入り、ひげを剃り、絵草紙(えぞうし)を読んで静かに過ごしたと言われています。
〒114-0023 東京都北区滝野川6丁目85 あたり
1868年4月25日:板橋「馬頭観音」あたりで処刑される

1868年4月25日、午後5時40分頃、近藤勇は馬頭観音付近で斬首されました。
斬首された理由は、彼が新政府軍にとって重大な罪人と見なされたためです。
特に、土佐藩が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を新選組の仕業と信じており、近藤勇の処刑を強く望んだことが大きな要因です。
通常、武士は名誉を重んじて切腹を許されることが多かったのですが、近藤勇の場合は斬首という最も重く屈辱的な処刑方法が選ばれました。これは、新政府軍内での処遇の話し合いの結果、土佐藩の意見が強く反映されたためです
先に紹介したセブンイレブン周辺は見物人で溢れていたそうです。
現在、この辺りは民家・マンションが立ち並び賑わっています。当時の景色は、道を一本入った大きなマンションの脇にある馬頭観音の祠だけです。
〒114-0023 東京都北区滝野川6丁目62
近藤勇の墓所(永倉新八)
斬首後、近藤勇の遺体は埋葬されました
馬頭観音から近藤勇の墓へ向かいます。

馬頭観音を50メートルほど直進。右折するとお墓があります。

現在の板橋駅東口前にこのお墓(供養塔)は建てられています。新選組2番隊隊長の永倉新八により作られました。

函館で戦死した副長の土方歳三をはじめ、百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。
〒114-0023 東京都北区滝野川7丁目8-10

近藤勇の墓の前には「JR埼京線 板橋駅」があります。近くて便利ですよね。

お疲れ様でした。
近藤勇を供養するために、ぜひ歩いてみてください。
1~2時間程度で歩ける程よい距離なので、健康にもオススメです。
近藤勇の処刑後、遺体の行方【塩漬け】
板橋で晒された近藤勇の首は、塩漬けにされて京都三条河原で晒されました。しかし、その後首は消えてしまいました。誰かが寺に埋葬したとされています。
胴体は、板橋の刑場に埋められた史実はありますが、その後の行方が不明のままです。4月28日の夜に、宮川勇五郎(みやがわ ゆうごろう)らが掘り起こし、近藤家の寺である龍源寺に改葬したと言われています。
しかし、石山家では見張りが厳重だったため、掘り起こすことはできなかったとも言われており、胴体の行方も不明のままです。
いづれにしても、近藤勇は自分の正義を貫き通し散っていきました。彼がいなければ池田屋事件もなく、明治維新も遅れたかもしれません。実際、新選組の影響は、単に歴史的な出来事にとどまらず、現代の日本文化や社会にも大きな影響を与えています。
彼が果たした役割や影響を
少しでも後世に伝えたく
記事をかきました。
近藤勇が過ごした最後の21日間。この記事を見て、弔っていただけると幸いです。